ライアンズとシャーカフスキーにおけるウィノグランド受容
今日は、東京都写真美術館で行われている「Visions of Ameria」展の関連企画である講演会に行ってきました。
お題は、「60年代から70年代へ:ソーシャルランドスケープとニュー・ドキュメンツ」。話者はともに知り合いの戸田昌子さんと中川裕美さん。
詳しい説明は省略。で、以下は講演を聴いて感じたこと。
二つの重要な展覧会
1:「コンテンポラリー・フォトグラファーズ−社会的風景に向かって」(ソーシャルランドスケープ展)、ネーサン・ライアンズ監修 1966年
2:「ニュー・ドキュメンツ」、ジョン・シャーカフスキー監修 1966-67年
両展覧会のキューレターである二人の写真観の違い、特にいわゆる『Life』に代表される報道写真でない写真における社会性・同時代性の解釈。この中で注目すべきは、両者からそれぞれの解釈で選考されているウィノグランド。
シャーカフスキーは、一つのフレーム内で写真によって完結できる(写真でしか見えない何かを生み出す)ある種構成的な写真の理想をウィノグランドに見、ライアンズは、フレーム内に収まりきらない関係性の豊かさを見た。
シャーカフスキー的写真は、しっかりした感じ。写真としての積極的な強さがある。こう撮れる人がいるのだから、こう撮らなくてはいけないと思わせる写真。
一方ライアンズ的写真は、撮る側も見る側もこれでいいのか?と思わずにはいられない写真。悪く言えばつまらない、ちゃんと読まないと何もなく見える写真。逆に後の世代の撮影者の立場で言うと、これでもいんだよ、と典拠を求めたくなる写真でもある。
同じウィノグランドでも、こうも見え方が違うのだろうか。また、ライアンズ自身が撮影した写真のいい意味で「つまらなさ」。結構こういうの撮りたかったけど、どうしていいか自分も周りも分からないような写真。これを今あえて撮るならば、相当強力な作家性がないと継続は無理なんだろうな。
今度ふたりにウィノグランド受容の違いについて聞いてみよう。










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